創られた「日本の心」神話

 ずいぶん以前に買ったまま途中で放り投げていたこの本を読了。

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

 

「日本の心」として人口に膾炙されている演歌が、「日本の伝統」ではないということは、そもそも「日本の伝統」などというフィクションを疑ってかかる最近の歴史研究(しばしばそれは歴史構成主義と呼ばれたりもするが)からすれば、十分想像できることであるが、本書はそのだれもが漠然と思っていることを、膨大な一次資料に頼りながら実証してみせたという意味で、意義は大きい。

 刊行してからすでに5年近くが経っている。この間、ブログやネットのレビューを見るとすでに各所で高い評価を受けているようだ。とりわけラッパーの宇田丸(と言っても、実はこのひとのことをよく知らないのだが)がラジオで紹介してから一気にその評価が高まったようである。


宇多丸が書籍『創られた「日本の心」神話~「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史~』を語る - YouTube

 

 著者によるとこういうことだ。演歌とは明治20年代に自由民権運動の文脈で現れた「歌による演説」を意味するものであったが、昭和40年代には音楽産業のひとつのジャンルであったレコード歌謡を「演歌」と言い換え、それが「知的な操作」を通じて「日本人の心」として再定義されてゆく。この両者は音楽的なつながりは、ほぼ、ない。演歌に特有のヨナ抜き五音音階は大正期にきわめて近代的な意識に基づいて生み出された和洋折衷の産物であり、さらに「こぶし」や「唸り」という特徴的な要素が現れるのは昭和30年代にはいってからであるとう。

 筆者は、この仮説を膨大な音源を渉猟することできちんと証明してみせ、さらにその時々の社会情勢、政治情勢のなかで、音楽産業と左翼運動の言説も目配せしながら「日本の心」が出来上がって行く過程を辿ってゆく。

 新書とはいえ、厳密な学問的手続きをふまえた論文である。

 些末な疑問を言えば、音楽に限らず芸術研究は対象への愛情がなくてはなし得ないと思うのであるが、1970年生まれの筆者が「演歌」とどう距離をとっているのであろうかということと、厳密な学術研究なのになぜ「ですます調」で書かれているのだろうか、という2つの点が気になった。

 ちなみに僕が永年信じていた「演歌=韓国からの収奪文化」説は、本書では否定されている。

  

Jazz The New Chapterのなかで最も気に入ったのはジャマイア・ウィリアムス

 現代ジャズをいいと思ったことがあまりないので、ちょうど連休で予定もないということもあって、この本を買ってじっくりと熟読してみた。刊行は2014年の2月だからもう1年以上まえの新刊なのであるが、いまでもタワレコなどのジャズコーナーに行くとしっかりと販売されている。 

Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平 (シンコー・ミュージックMOOK)

Jazz The New Chapter~ロバート・グラスパーから広がる現代ジャズの地平 (シンコー・ミュージックMOOK)

 

 隣りには必ず、オムニバスCD版も陳列されており、ようするに書籍(ムック)を読みながらCDを聴けば、現代ジャズをおおかた把握できる、というわけである。

 

JAZZ THE NEW CHAPTER

JAZZ THE NEW CHAPTER

 

  ロバート・グラスパーをはじめとするコンテンポラリージャズについてはいろいろと思うところもあって、最近はようやく、グラスパーの作品を全部聴いてみようかという気にもなりつつあるが、それよりも先にこのCDを聴いてみて気になったが、ジャマイア・ウィリアムスというドラマーである。CDでは5曲目のクリスチャン・スコットというトランぺッターのアルバムに参加。規則正しくきめ細やかなリズムキープが耳に残った。

 ただ、本誌ではそのジャマイア・ウィリアムスにそれほど重きをおいて扱われている訳ではない。グラスパーのドラムが技巧的であるという話は以前から耳にしていたが、どうやらそれは別人。クリス・デイブやマーク・コレンバークの2人が大きく扱われているのみで、ジャマイア・ウィリアムスは索引にさえ、その名前が出てこないのである。

仕方ないのでネットでググってみたらこんなサイトを見つけた。

第13回 N.Y.の最先端を探せ!! - 「DJ 大塚広子の神保町JAZZ」 - ナビブラ神保町

 これを見る限りでは、結構有名な若手ミュージシャンの有望株のようで、来日もしている。ケニーギャレットとの共演がもっともジャズよりの活動で、あとは現代ジャズとかニューロックとか、そのへんの活動が目立つ。

 Jazz The New Chapterで収録されているアルバムのうち、クリスチャン・スコットのアルバムとともに、ジャマイア・ウィリアムスが参加しているのは、これ。

State of Art

 そのうちCDを買ってみよう。 

 

 

渋谷 マザーズ

 渋谷にブートの聖地があるというので、週末の仕事終わりに行ってきた。ハンズのもう少し先のビルの2F。店内は想像以上に雑然としていて店舗というよりも倉庫のよう。それでも、店員の話だとブルーノートあたりのライブにきた外国人ジャズマン買いにくるのだと言う。そういえば似たような話を名古屋・千種のブート屋でも訊いたことがあるのだが、日本はブート市場が発達しているのだろうか、と思いつつ、店内を見回すがそもそもどこに何があるかもわからない。いちおう「棚」らしきものはあるのだが素人がさわろうとすると積み上げている在庫が崩れかねない。希望のミュージシャンを言うと店員が在庫の山から引っ張りだしてくれるシステムらしい。昔の本屋の座売りのようなものか。

 ハービー・ハンコックやブレッカーやメセニーなどを10枚ほど試聴して、2枚だけ購入。

 

 

TIBFで買った書籍など

今年の東京国際ブックフェアで購入したのは島田潤一郎『あしたから出版社』(晶文社)と河出書房の別冊文藝を5冊。別冊文藝は特集「ボブ・マーリー」「ビル・エバンス」「ジョン・コルトレーン」「ブルーノート」、そして「レッド・ツェッペリン」である。

書籍協会と図書館協会の「図書館セミナー」、本の学校出版産業シンポジウム、大学出版部協会・書物復権の会の「ブックハンティングセミナー」など、今年も幾つかのセミナーに参加し、そのうちの幾つかを主催・運営した。思うところは多々あり、収穫も多かったが、その話はまた今度。

ほぼ1週間ぶりの通常業務。自転車で帰る。

 

 

あしたから出版社 (就職しないで生きるには21)

あしたから出版社 (就職しないで生きるには21)

 

 

ボブ・ディラン

なんかちょっとつかれたので、早々と会社を後にしてまっすぐに家に帰った。梅雨入りしたのだとかで自転車は当分使えない。自宅に帰ってもこれといってなにもやる気力と体力が残されていないので、取りダメているビデオHDDのなかから見つけた、ボブ・ディランのバースデイ・コンサートのライブを観はじめたが、これはボブ・ディランのライブではなくて、他の有名アーチストがディランの曲を演奏するものであった。1曲めのメレンキャップ「ライク・ア・ローリングストン」と、次の曲のスティビー・ワンダー「風に吹かれて」は、なかなか観ものだったけど、その他は少しも面白くなかった。考えてみれば、ぼくはディランの曲をあまり聴いたことがない。

チャーリー・ヘイデンモントリオールライブを聴く。ジョン・ヘンダーソンとアル・フォスターのトリオ。明日も雨のようだ。

ワークアウト

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仕事を終えてからチャリで本郷まで急ぐ。「本の学校」シンポの運営委員会が開かれるのである。はやいもので今年はもうこれが最後の会議となった。分科会の確認とスタッフの役割分担と交流会の受付と入場券の準備と名札の確認とそれから弁当の手配など、諸々を最終的に打ち合わせる。あとは本番の7月5日。帰りは本郷から中野まで早稲田通りをチャリで走る。

ハンク・モブレー「ワークアウト」を昨日に引き続き聴いた。グラント・グリーンウィントン・ケリーポール・チェンバースフィリー・ジョー・ジョーンズという豪華なバックメンバーであり、これはモブレーがマイルスの「サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム」のセッションに参加した、わずか数日後に録音されたものであるという。マイルスの呪縛から離れて活き活きと吹くモブレーが聴けると思うのは、気のせいか。